この書体をコンテストに出品したときの制作意図を、鈴木は次のように記している。
「写植文字・活字を含め、これといったユニークなディスプレイがないのに着目し、今までにない太さの丸ゴシック体を創作した。
従来、太い書体は画数が多い場合、その部分を細くして処理していたが、この書体では“くい込み”の方法をとり、なるべく太さを均一に保つようにした。結果的にはこの“くい込み”が面白い効果となったと思う。また、ディスプレイタイプの太い書体は字間が目立つためそれを防ぐ意味で字面を大きくした。利用範囲は限られると思うが、それがかえって印刷物をひきたてることになるのではないか。」
この制作意図のとおり、線を極限以上に太くして重ね処理を施した、大らかでユーモラスな形のスーボは、二十五年経った今も幼児から小学校低学年向けの雑誌を中心に多く使われている。また理由は不明だが、中国の上海では書籍を始め看板などで見かける機会が多かった。それにしても二十代前半に制作したとは思えない完成度である。鈴木本人の努力もあっただろうし、写研のスタッフの優秀さに助けられたこともあっただろう。が、何よりも鈴木の才能の賜物ではなかったかと思う。
いわゆる新書体ブームは、一九六九年、グループ・タイポによる「タイポス」から始まった。それまで印刷用書体としては、一般的には明朝体、ゴシック体、丸ゴシック体、楷書体などしかなく、書体を制作する人の存在はごく一部の人たちにしか知られていなかった。タイポスの登場はそうした書体デザイナーに光を当てると同時に、書体デザインそのものにも光を当てるきっかけとなった。そして、この新書体ブームを牽引し、開花させる役目を果たしたのが石井賞創作タイプフェイスコンテストである。
このコンテストは、新しい書体デザインの発掘の場として業界第一位の写研が一九七〇年に設立したもので、第一回石井賞の受賞作品は後に爆発的なブームを巻き起こした中村征宏氏デザインの「ナール」であった。最優秀賞の賞金が百万円を超えるということもあり、業界および文字デザイナーに与えた影響は絶大なものがあった。
その第二回コンテストで、百点前後の応募作品の中から弱冠二十三歳の若者の作品が選ばれたことは、関係者に大きな衝撃をもって迎えられた。実はこの時、写研の社員がコンテストに応募してもいいものかどうか、公平な審査ができるのかどうかという議論があった。だが、誰でも平等に機会を与えようという審査員の声と、応募作品のパネルの裏に記された氏名を隠して評価する審査方法をとるということで、社員であった鈴木にも参加資格が与えられたという経緯がある。
スーボという書体は重ね処理がポイントで、どの部分をどのように重ねたらいいかというルールがないため、その制作は試行錯誤の連続だったという。結局、鈴木個人の感覚に頼る部分が非常に多く、約三千の文字を作り上げるには大変な苦労があったようだ。この時、スーボを制作したスタッフの中に、後に夫人となった雅子さんもいた。
それから数年後、学生だった筆者が会社見学に行った時のことである。文字制作の現場に案内され、「この人がスーボの鈴木君だよ」と紹介された。右の耳に筆を挟んで不機嫌そうに文字を作っていた鈴木は、いかにも気難しい人のように見えた。しかし、体を揺らしながら迷惑そうに立ち上がって「スーボの鈴木です」と低い声で言ってはにかみ、案内の方から「ほら、書体と一緒だろ」と言われると今度は照れくさそうに頭をかいた。その笑顔は人なつこく、ああ、やっぱり書体どおりの人なんだなと思ったものである。(T)
「書体制作が完了するころにやっと、その書体が分かったような気がしてくるんだよ」